判例
A事件は、判例として、下記の様に表現されております。
東京地裁
【裁判年月日等】 平成20年 7月30日/東京地方裁判所/民事第24部/判決/平成18年(ワ)第23309号
【事件名】 遺言無効確認請求事件
【裁判結果】 棄却
【上訴等】 控訴
【裁判官名】 澤野芳夫 荻原弘子 長井清明
【審級関係】 控訴審 平成20年12月25日/東京高等裁判所/第19民事部/判決/平成20年(ネ)第4422号
東京地方裁判所
平成18年(ワ)第23309号
平成20年07月30日
東京都○○区(以下略)
原告 X
同訴訟代理人弁護士 岩田修
同 宮島佳範
同 梶浦明裕
東京都○○区(以下略)
被告 Y1
同所
被告 Y2
東京都○○区(以下略)
被告 Y3
東京都○○区(以下略)
被告 Y4
被告ら訴訟代理人弁護士 桒原周成
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 請求の趣旨
(1) 東京法務局所属公証人A作成の平成18年第1192号遺言公正証書による亡Bの遺言が無効であることを確認する。
(2) 訴訟費用は被告らの負担とする。
2 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第2 事案の概要
本件は、平成18年6月16日に死亡したB(以下「被相続人」という。)の相続人である原告が、東京法務局所属公証人A(以下「A公証人」という。)作成の平成18年第1192号遺言公正証書(以下、本件公正証書」という。)による被相続人の遺言は、被相続人が作成当時遺言能力を失っていたこと又は民法969条所定の要件を欠くことから無効であると主張して、共同相続人である被告らとの間で、本件公正証書が無効であることの確認を求めた事案である。
1 前提となる事実(証拠を掲記した事実以外は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者(別紙親族関係図参照)
ア B(以下「被相続人」という。)は、大正15年3月20日に出生し、平成18年6月16日午前1時42分、東京慈恵会医科大学附属病院(以下「慈恵医大病院」という。)において、満80歳で死亡した。
イ 被相続人の法定相続人は、妻である被告Y1(以下「被告Y1」という。)、長男である原告、長女である被告Y2(以下「被告Y2」という。)、二男である被告Y3(以下「被告Y3」という。)及び二女である被告Y4(以下「被告Y4」という。)の合計5人である。
(2) ア 被相続人は、同年5月21日、慈恵医大病院に入院した。
イ A公証人は、同年6月14日午後3時30分ないし午後4時ころ、被相続人が入院していた病室(以下「病室」という。)において、本件公正証書を作成した。
本件公正証書による遺言の内容は、以下のとおりである。
(ア) 被告Y1に、別紙物件目録1記載の土地の持分10分の2、同7記載の建物の持分10分の5(以下、別紙物件目録1記載の土地及び同7記載の建物を併せて、「本家の土地建物」という。)及び同2記載の土地(以下「佐久の土地」という。)の全部並びに被相続人名義の預貯金債権、有価証券、現金及び動産類の全部を相続させる。
(イ) 被告Y2に、本家の土地建物の持分各10分の5を相続させる。
(ウ) 被告Y3に、別紙物件目録3記載の土地の全部及び同8記載の建物の持分20分の13(以下、別紙物件目録3記載の土地及び同8記載の建物を併せて、「分家の土地建物」という。)を相続させる。
(エ) 原告、被告Y2、被告Y3及び被告Y4に、別紙物件目録4ないし6の各土地(以下、併せて「鎌ヶ谷の土地」という。)を均等の割合をもって相続させる。 (オ) 被告Y2を遺言執行者に指定する。
(3) 被相続人の本件公正証書による遺言によって、原告及び被告らが相続した財産の価格は、それぞれ、以下のとおりである。
ア 原告 677万1493円
イ 被告Y1 4899万6998円
ウ 被告Y2 2719万7434円
エ 被告Y3 4981万6429円
オ 被告Y4 677万1499円 (乙11)
2 争点及び争点についての当事者の主張
(1) 被相続人の遺言能力(民法963条)の有無(争点1)
(原告の主張)
ア 被相続人の病状
(ア) 被相続人は、肝硬変及び肝細胞癌に罹患していたため、平成18年6月14日には、意識レベルが低下していた。
(イ)被相続人は、同日午後1時30分ころには、苦しがって、ベッドの柵にしがみついたり、腕をぶつけたりしており、原告の妻であるC(以下「C」という。)の問いかけに対しても、発語できず、首を横に振る程度の反応しかできない状態であり、午後3時ころには、被告Y3の問いかけに対し、返事をしていなかった。
(ウ) A公証人は、同日午後4時ころ、病室に入室した。
A公証人が、被相続人に対し、「Bさんですね。」と問いかけると、被相続人は、発語せずに、右手を少し持ち上げる仕草をした。
すると、A公証人は、「あー、分かっていますね。」と言って、本件公正証書を読み上げ始めた。
A公証人は、被相続人に対し、本件公正証書の各条項を文言どおり1回だけ読み上げ、各条項ごとに「いいですね。」と問いかけたが、被相続人は、発語せずにかすかに頷くだけであった。
読上げの途中、被相続人が白目をむいたので、A公証人は、被告Y3に対して「大丈発か。」と尋ねたが、返事はなかった。
読上げが終わると、被相続人は、仰向けの姿勢のまま、本件公正証書に署名をしたが、押印はしなかった。
A公証人が病室から退出するとすぐに、被相続人は、再び、上肢をむやみに動かすなどの不穏行動を始めた。
(エ) 被相続人の担当医であったD医師(以下「D医師」という。)によれば、被相続人は、同日当時、意識障害を伴う疾病である肝性脳症及び尿毒症あるいは腎不全を発症しており、その意識レベルは低下していた。
また、被相続人は、同日当時、睡眠薬及び痛み止めを投与されていた上、睡眠不足の状態にもあり、全身状態も悪く、意識レベルはそれらの影響によって更に低下していた。
イ 本件公正証書の内容
(ア) 被相続人は、生前、原告に対し、以下のとおり原告及び被告らに遺産を相続又は処分させたいとの意思を伝え、有価証券の取引残高報告書を手渡していた。本件公正証書の内容はこの意思に反するものなのに、被相続人は、本件公正証書の作成の際、異議等を述べなかった。
a 被告Y2に、被告Y1との同居を条件として、本家の土地建物を相続させる。
b 被告Y3に、分家の土地建物を相続させる。
c 原告に、鎌ヶ谷の土地及び有価証券を相続させ、佐久の土地を処分させる。
d 原告を遺言執行者に指定する。
(イ) 本件公正証書の内容は、複数の財産を複数の相続人にそれぞれ異なった割合で分配する複雑なものであり、アの病状にあった被相続人に理解できるものではなかった。
ウ ア、イの各事実によれば、被相続人は、本件公正証書の作成当時、それによる遺言の内容と効果を理解して遺言をする能力を失っていた。
(被告らの主張)
ア 被相続人の病状
(ア) A公証人は、平成18年6月14日午後3時30分ころ、病室を訪れた。
被相続人は、A公証人から、「Bさんですね。」と問いかけられると、右手首を持ち上げて、「はい。」と答えた。
被相続人は、本件公正証書の読上げに先立ち、被告Y4に対し、「眼鏡を取ってくれ。」と頼み、渡された眼鏡をかけると、被告Y3と被告Y4に本件公正証書を持たせ、両名の腕をつかんで前後に動かして遠近の調節をした。
それから、A公証人が、被相続人に対し、本件公正証書を読み上げ、各物件ごとに遺言の意思を確認すると、被相続人は、その都度、本件公正証書の文言を読んだ上で、「はい。」と答えた。
途中で一回休憩を挟んで、読上げが終わると、被相続人は、本件公正証書に署名するに当たり、練習を1回した上、仰向けに横たわった姿勢で両肘を宙に浮かせたまま、しっかりした字で署名をした。
そして、被相続人は、右手の親指と人差し指で丸い輪を作り、A公証人の方に右腕を振る動作をして、被告らに対し、A公証人に報酬を支払うよう指示した。
A公証人が病室から退出した後、被相続人は、被告Y2に対し、「モルヒネは使わないでくれ。」、「早く家に帰りたい。」などと話しかけ、被告Y2が、「大丈夫よ。モルヒネは使わないから。」、「帰れるよ。近いうちに。」などと返事をすると、自分の死期が近いことを悟り、被告Y2に対し、明るく笑いかけた。また、被相続人は、被告Y3と会話したり、被告Y1及び被告Y3の子供ら(E及びF)に笑いかけたりしていた。
(イ) 本件公正証書の作成当時の被相続人の肝性脳症の重篤度は、I度からⅣ度まであるうちのI度ないしⅡ度という比較的軽いものであり、また、被相続人は、同月13日当時、尿毒症又は腎不全による意識障害を発症していなかった。
したがって、被相続人は、本件公正証書の作成当時、意識障害に陥っておらず、その意識は清明であった。
イ 本件公正証書の作成の経緯
(ア) 被相続人は、平成18年3月ころから、遺言書作成に関する本を読んでいた。
被相続人は、被告Y2に対し、同年5月4日、自宅において、自らの遺言の内容を口述し、同月24日及び31日、病室において、遺言の内容をより整理して口述した。さらに、被相続人は、同年6月3日、被告Y2に対し、これまでに述べた内容の遺言だけでは不十分だとして、今度は被告Y1がするべき遺言の内容を口述した。被告Y2は、被相続人が口述した内容をそれぞれメモに記載し、被告Y3をしてワープロで清書させた。
そして、被告Y3が、被相続人に対し、清書した書面(以下「本件清書」という。)を読み上げると、同人が、その内容で遺言の手続をとるよう指示したので、被告らは、被相続人の知り合いのG会計事務所を通じて、錦糸町公証役場に遺言公正証書の作成を依頼した。
被相続人は、同月13日、A公証人が作成した遺言公正証書の原案を確認し、その内容の遺言をすることを了承した。
このような経緯の未、同月14日、本件公正証書が作成された。
(イ) 被相続人の有価証券の取引残高報告書は、原告が勝手に持ち出したものである。
(2) 「口授」の要件(民法969条2号)の有無(争点2)
(被告らの主張)
前記(1)(被告らの主張)イ(ア)のとおり、被相続人の遺言の意思は本件公正証書を作成するまでに十分確認された。
そして、同ア(ア)のとおり、被相続人は、A公証人に対し、本件公正証書のとおりの遺言をする旨の意思を明確に表示した。
したがって、本件公正証書による遺言は、その手続の経緯を全体的にみれば、「口授」の要件を満たす。
(原告の主張)
ア 公正証書遺言の要件である「口授」とは、言語をもって申述することであり、発語を伴わない表示は口授に当たらない。
イ 前記(1)(原告の主張)ア(ウ)のとおり、被相続人は、A公証人の「いいですね。」という問いかけに対し、発語をせずに頷いたのみであったから、「口授」があったとはいえない。
仮に、被相続人が、A公証人の問いかけに対し、本件公正証書の一部の条項について呼吸音に近い声で「はい。」又は「はえ。」と発語したとしても、その余の条項については発語せず領いたのみであって、このような明確性を欠く表示は、遺言の明確を期し他人の強制による遺言を防止するという口授の要件の趣旨に照らして、公正証書遺言の要件である「口授」に当たらない。
ウ したがって、本件公正証書は、民法969条2号の口授の要件を欠き、無効である。
(3) 「印を押すこと」の要件(民法969条4号)の有無(争点3)
(被告らの主張)
本件公正証書による遺書は、民法969条4号の「印を押すこと」の要件を満たす。
(原告の主張)
ア 公正証書への遺言者の押印は、遺言者が自らするのが原則であり、他人が押印する(いわゆる代印)場合には、<1>遺言者の意思に基づき、<2>遺言者の面前で即時にすることを要する。
イ 本件公正証書への被相続人の押印は、被相続人がしたものでなく、他人がした代印であるが、被相続人は、誰にも本件公正証書に代印するよう依頼していないから、上記押印は<1>の要件を欠く。
また、上記押印は、病室でされたものではなく、時間が経ってから遺言者の面前でない場所でされたものであるから、<2>の要件を欠く。
ウ したがって、本件公正証書による遺言は、民法969条4号の「印を押すこと」の要件を欠き、無効である。
第3 当裁判所の判断
1 (1) 前記前提となる事実、証拠(甲4の1、2、甲5、甲9、甲11、甲12、乙1の1ないし4、乙2ないし乙4、乙12、証人D(第1、2回)、証人A、証人C、被告Y2)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
ア 被相続人が入院するまで
(ア) 被相続人は、平成16年ころから、肝硬変、肝細胞癌等により、慈恵医大病院に入通院し、複数回にわたって手術を受けていた。
(イ) 被相続人が死亡する数年前から、原告は、被相続人に対し、自分はいつ離婚するか分からないなどと述べていたので、被相続人は、原告とCの離婚問題について心配していた。
被相続人は、原告に対し、原告はいつ離婚するか分からないし、子供もいないから、遺産はやらない旨告げたことがあり、Cは、平成18年5月25日に被告Y2や被告Y3にあてて送った手紙の中にそのことを記載した。
(ウ) 被相続人は、同月4日、自宅において、同居していた被告Y2に対し、自らの遺言として、以下の内容を述べ、被告Y2はこれをメモ(乙1の1)に記載した。
a 被告Y1及び被告Y2に、本家の土地建物を相続させる。
b 被告Y1に、佐久の土地、預貯金及び株式を相続させる。
c 被告Y3に、分家の土地建物を相続させる。
d 原告、被告Y2、被告Y3及び被告Y4に、鎌ヶ谷の土地を売却させ、その代金を均等に分けて取得させる。
e 被告Y2を遺言遂行の責任者に指定する。
(エ) 被相続人は、同月21日、下血が発見されたため、消化管出血の疑いで、慈恵医大病院に緊急入院した。
イ 本件公正証書の作成の準備
(ア)被相続人は、同月24日、「病室において、被告Y2に対し、前記ア(ウ)の遺言について、その文言を自分が述べるとおりに修正することを求め、被告Y2は被相続人が述べた文言をメモ(乙1の2)に記載した。
(イ) 被相続人は、同月31日、病室において、被告Y2に対し、(ア)の遺言の文書の一部を自分が述べるとおりに更に修正するように求め、また、被相続人の意思を全うするため被告Y1の遺言も作っておくことなどを指示した。
そこで、被告Y2は、(ア)のメモに赤字で被相続人が述べた文言を書き加え、上記の指示をメモ(乙1の3)に記載した。
また、被告Y2は、(ア)のメモに赤字で、相続人の氏名、不動産の所在、地積等を書き加え、メモを遺言書に近い形に整えた。
(ウ) 被相続人は、同年6月3日、病室において、被告Y2に対し、被告Y1の作るべき遺言の内容として、被告Y2に全財産を相続さする旨を述べ、被告Y2はそれをメモ(乙1の4)に記載した。
(エ) 被告Y2は、被告Y3に対し、赤字が書き加えられた(ア)のメモ(乙1の2)を渡して、これをワープロで清書するよう依頼し、被告Y3は、本件清書(乙2。以下、これと乙1の1ないし4の各メモを併せて、「本件清書等」という。)を作成した。
(オ) 被告Y3が、同月4日ころ、被相続人に対し、本件清書を読み聞かせると、被相続人は、その内容で遺言の手続をするよう指示した。
そこで、被告Y2と被告Y3(以下、併せて「被告Y2ら」という。)は、被相続人の知り合いのG会計事務所に対し、遺言公正証書を作成したいと依頼し、その依頼が同会計事務所から錦糸町公証役場のA公証人に伝えられた。
(カ) A公証人は、同月12日ころ、被告Y2から、G会計事務所を通じて、被相続人の病状が悪化した旨の連絡を受け、被告Y2に対し、至急、錦糸町公証役場に来るよう指示した。
(キ) 被告Y2らは、同月13日ころ、錦糸町公証役場を訪れ、A公証人に対し、被相続人の病状を伝え、同人の遺言公正証書の作成を正式に依頼した。
A公証人は、被告Y3に対し、本件清書を基に作成した遺言公正証書の原案(その記載は本件公正証書と同じである。)を渡し、被相続人に遺言の内容はそのとおりでよいか確認するよう求め、被告Y3から、被相続人がそのとおりでよいと回答した旨聞いた。
(ク)被告Y2は、同日の被相続人の様子を見て、同人の病状がひどく悪化し死期が切迫していると判断したので、同月14日午前9時ころ、錦糸町公証役場を訪れ、A公証人に対し、被相続人の病状が悪化し、同日又は翌日に死亡するかもしれないので、同日中に遺言公正証書を作成してもらいたいと述べた。A公証人はこれを承諾し、同日午後、慈恵医大病院を訪れることにした。
ウ 入院後の被相続人の病状
(ア) 被相続人は、同車5月21日の入院直後、内視鏡等による検査を受けたが、出血源がはっきりしなかったので、しばらく経過観察することになった。同人には、当時、下血、腹水、下肢浮腫、歩行時のふらつき等の症状があった。
(イ) その後、下血は収まっていき、被相続人の病状は、同年6月1日ころには、腹水及び下肢浮腫がコントロールできておらず、肝機能及び腎機能もよくなかったものの、少しは食事を摂れて歩ける程度に回復し、同人及びその家族が退院を強く希望していたこと、肝機能及び腎機能の改善は肝細胞癌の進行度からもはや期待できなかったことから、被相続人を早期に退院させる方針が立てられた。
(ウ)しかし、被相続人は、同月6日から11日にかけて、食欲の低下、腎機能の悪化、血性腹水の状態を呈し、「こんなに体力が落ちるなんて。自分じゃ何もできない」、「動けなくなったな…。困った…。」、「力が入りにくいですね。」、「1人じゃ動けなくなったよ。足に力が入らなくて…。」、「右足はもうマヒしたみたいに動かないよ。」、「自分では何もできなくなってきちゃったよ。」などと発言し、歩行はおろか、ベッド上で体位変換したり、足を立てたりもできなくなるなど、その病状が著しく増悪したため、退院の方針は撤回された。
そして、同月12日には、増悪した病状を改善するため、中心静脈にカテーテルを挿入する中心静脈栄養法が施行された。
なお、同月6日ころ、被相続人の筋力低下を改善するため、リハビリテーションが検討されたが、同月13日、理学療法士がその段階ではないとの見解を示したため、リハビリテーションは行われなくなった。
(エ) 同月13日、被相続人は、「はーはー眠れない。息苦しい…」、「はーはー、何でだろう。なんだか体が苦しい」、「あーあー体がだるいんですよ。どうにかならないですか。」、「はーはー、どうしたらいい。かんべんして。弱っちゃったなあ。」などと訴え続け、多量の腹水並びに肝機能及び腎機能の悪化(血中アンモニア濃度の急激な増加等)の状態を呈した。
H医師及びD医師は、被告Y2に対し、被相続人の病状について、癌が肝臓全体に広がり、肝不全が進行し、全身のだるさが増悪しており、非常に厳しい状態にあると説明し、苦痛緩和のための塩酸モルヒネの投与を承諾するかどうか尋ねた。これに対し、被告Y2は家族で検討する旨答えた。
被相続人は、同日午後7時ころに入眠したが、その後も度々眠りから覚めては看護師又は付添いの家族に苦痛等を訴えた。看護師は、午後8時ころの被相続人の意識の清明度について、「刺激すると覚醒し、合目的な運動をするし、言葉も出るが、間違いが多い状態」であると判断した。
(オ) 同月14日未明、被相続人の病状は更に悪化し、度々眠りから覚めては苦しそうな表情で、「起こして、ひっぱって。」、「うごかない…。」、「苦しい。」、「痛い。」などと声をあげていたが、開眼しても眼の焦点は合わず、上肢が時々腹部をかいたり顔の周りを払いのけたりするようにむやみに動くという状態であった。看護師は、午前2時30分ころの被相続人の意識の清明度について、「刺激すると覚醒し、合目的な運動をするし、言葉も出るが、間違いが多い状態」であると判断した。
日中、被相続人は、「はーはー。」と息を荒げ、ベッドの柵をつかんで体を柵に引き寄せては脱落するという動きを繰り返し、視線を宙にさまよわせていたものの、声をかけられれば返答し、簡単なやりとりはできるという状態であった。
午後1時30分ころ、Cが、病室に入室し、被相続人の様子を見て、痛み止めがほしいのかとしきりに尋ねたが、同人から明確な返事はなかった。
D医師は、同日の診察で、被相続人は、意識レベルが低下しており、呼びかけに対して反応するが、入眠の状態にあることが多く、肝性脳症等の発症の疑いがあると診断した。なお、肝性脳症は、肝硬変、肝細胞癌等の肝臓疾患に伴い発症する意識障害を特徴とする疾病であり、その症状には日内変動がある。その重症度は昏睡度によって、睡眠覚醒リズムの逆転があり、軽度の混迷、抑うつ状態等が見られる状態(昏睡度1)、時間、場所等を間違えたり分からなくなったりする見当識障害が間欠的にあり、不適切な言動が見られ、ときにより傾眠状態にあるが、普通の呼びかけで開眼し、会話ができる状態(昏睡度2)、見当識障害が持続的にあり、ほとんど眠っており、外的刺激で開眼するが、簡単な命令以外には従えない状態(昏睡度3)、完全に意識が消失し昏睡に陥るが、痛みや刺激に反応する状態(昏睡度4又は4B)、深い昏睡に陥り「痛みや刺激にも全く反応しない状態(昏睡度5又は4A)の5段階に分類されるが、D医師は、同日までの被相続人の昏睡度は昏睡度1、ないし2の段階であると判断していた(乙3、乙4、証人D(第2回))。
また、D医師は、被相続人が中心静脈のカテーテルを抜こうとするので、腕とベッドを紐で結ぶなどの抑制がやがて必要になると判断し、被告Y2をして「抑制に関する同意書」に署名させた。なお、被告Y2は、前日に尋ねられた塩酸モルヒネの投与について、まだ会わせたい人もいるので希望しないとの回答をした。
看護師は、被相続人の意識の清明度について、「刺激なしで覚醒しているが、名前、生年月日が言えない状態」から「刺激すると覚醒し、目的な運動をするし、言葉も出るが、間違いが多い状態」の間にあると判断した。
同日、被相続人は、睡眠薬及び眠くなる成分の入った痛み止めの投与を受けたが、塩酸モルヒネの投与は受けなかった。
エ 本件公正証書の作成の状況
(ア) 同日午後3時前ころ、被告Y3、被告Y4及び被告Y3の妻であるI(以下「I」という。)が、病室に入室し、同日午後3時30分ないし午後4時ころ、被告Y2が、A公証人、書記及び証人2名とともに、病室に入室した。
A公証人は、被相続人に対し、「Bさんですね。」と呼びかけた。これに対し、被相続人は、ベッドに仰向けに寝た状態で、頷くか、又は頷くとともに呼吸音に近い声で「はえ。」と発語した。
そこで、A公証人は、被相続人の意識レベルは遺言ができる状態であると判断し、同人に対し、自分が公証人であり、遺言公正証書の作成に来た旨告げた上、被相続人の枕元に立った。
この時に病室にいた各人の位置関係は別紙図面のとおりである。
被告Y3と被告Y4は、仰向けに寝ている被相続人に眼鏡をかけさせ、その眼前に本件公正証書(甲4の1)を差出した。
A公証人は、全5条からなる本件公正証書を第1条から順番にその記載どおりに読み上げ、1つの物件を誰かに相続させる旨読み上げるごとに、被相続人に対し、「これでいいですね。」などと耳元で言って確認を求めた(ただし、被告Y1に別紙物件目録1記載の土地の持分10分の2を相続させる旨確認した際には、被告Y1が同土地の持分10分の3を既に所有しており、この持分と相続させる持分を併せると2分の1になることから、「半分を奥さんにあげるんですね。」などと表現した。)。
これらに対し、被相続人は、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」との発語をするか、又はその両方の反応をするかしていた。
この読上げの途中、被相続人が、視線を上を向け宙にさまよわせる様子を見せたので、A公証人は、「大丈夫ですか。」と声をかけたが、誰も返事をしなかった。しかし、A公証人は、本件公正証書の読上げを続けた。
本件公正証書の読上げが終わると、A公証人は、被相続人が署名できるか確認するため、被相続人に対し、署名の練習をするよう促した。すると、被相続人は、仰向けの姿勢のまま、被告Y4が眼前に差し出したクリップボードに挟まれたメモ用紙に署名をした。
これにより、A公証人は、被相続人は署名できると判断して、持参していた署名ができる遺言者用とできない遺言者用の公正証書の様式のうち、署名ができる遺言者用の公正証書の様式を被告Y4に渡し、同被告はこれをクリップボードに挟んで、被相続人の眼前に差し出した。
すると、被相続人は、仰向けの姿勢のまま、誰からも支えられることなく自分で腕を上げ、本件公正証書に署名した。
A公証人が、被相続人に対し、遺言の作成が終わった旨告げると、被相続人は、右手を上げ、親指と人差し指で丸い輪を作り、右腕を右から左へ1回振る仕草をした。
続いて、A公証人は、被告Y2、被告Y3又は被告Y4のいずれかをして本件公正証書に被相続人の印章を押印させ、本件公正証書を完成させて、上記被告らのいずれかに本件公正証書の正本及び謄本を渡した。
そして、A公証人は、本件公正証書の作成はぎりぎり間に合ったが、あと少し遅ければだめだったと思う旨述べた後、被告Y2とともに、病室を退出した。
A公証人が病室に在室していた時間は、15分程度であったが、この間、被相続人は、静かにベッドに横たわり、上肢をむやみに動かすなどの無意味な動きをしなかった。
(イ) その後、A公証人を送った被告Y2が、被告Y1及び被告Y3の子供らを連れて、病室に入室した。被告ら、I、被告Y3の子供らは、被相続人を見舞った後、病室を退出した。
オ その後の経過
(ア) 同日午後7時ころ、被相続人は、上肢を活発に動かしながら、付き添っていたCに対し、小さい声で少し発語し、看護師の声かけに対しては顔は向けるが視線は合わないという状態であった。
(イ) 同月15日午前1時30分ころ、被相続人は、中心静脈のカテーテルを抜いてしまい、抑制を受けることとなった。
午前4時ころ、被相続人の血圧が低下し、呼吸が浅く努力様になったため、昇圧剤が投与された。
午前5時ころ、原告が病室に入室したので、抑制が解かれたが、被相続人は、上肢を活発に動かし体につながれたコードを外すなどしてしまい、また、開眼しているものの声かけに応答しないようになった。
被相続人は、同日朝から日中にかけて、時々上肢をばたつかせるものの、発語又は発声を全くせず、下顎呼吸をするようになり、尿もほとんど出なくなって、意識レベルは更に低下した。看護師は、被相続人の意識の清明度について、「刺激すると覚醒するが、呼びかけを繰り返すと辛うじで開眼する状態」から「刺激をしても覚醒せず、痛み刺激で少し手足を動かしたり、顔をしかめる状態」の間にあると判断した。
(ウ) 被相続人は、同日夜から深夜にかけて、徐々に意識レベルが低下し、下顎呼吸が弱くなり、心拍数が減少していった末、同月16日午前1時42分、死亡した。
被相続人に係る死亡診断書には、直接死因はC型肝硬変及び肝癌と記載された。
(2)ア 以上の認定に対し、原告は、被相続人は、生前、原告に対し、鎌ヶ谷の土地、株式等を相続させたいと述べており、本件清書等及び本件公正証書の内容はこれに反するから、被相続人の意思に基づくものではないと主張する。そして、原告が被相続人名義の有価証券の取引残高報告書を所持していることや、本件清書等には被相続人の署名押印又は筆跡が一切ないなど、原告の主張に沿う事情も存する。
しかし、仮に、被相続人が原告に有価証券の取引残高報告書を渡していたとしても、そのことをもって直ちに、被相続人が、本件清書等及び本件公正証書の作成当時に、原告に対してすべての株式を相続させる意思を有していたと推認することはできないし、また、被相続人が、本件清書等の作成当時、80歳と高齢であったこと、被告Y2と長年同居していたこと、本件清書等は遺言公正証書を作成するための資料にすぎなかったことに照らせば、本件清書等に被相続人の署名押印又は筆跡がないことが不自然であるとまではいえないから、これらのことから直ちに、本件清書等及び本件公正証書の内容が被相続人の意思に基づくものではないということはできない。
かえって、被相続人は、長年、被告Y1及び被告Y2と同居していたこと、被告Y3にはB姓の子供が2人いるが、原告及び被告Y2には子供がいないこと、原告が歯科医師であり、被告Y4が医師の妻であること(いずれも当事者間に争いがない。)、(1)ア(イ)のとおり、被相続人が、原告に対し、原告はいつ離婚するか分からないし、子供もいないから、遺産はやらない旨述べていたことからすると、本件清書等及び本件公正証書の内容は被相続人の意思に基づくものであったと推認することができる。
また、本件清書等及び本件公正証書の内容が、被相続人の意思に反し、被告Y2らが無断で創作したものであるとすれば、被告らが公正証書遺言の手続をとったのは不自然であるといえる。すなわち、原告の主張を前提とすると、公証人が遺言公正証書を作成する際、被相続人の意識状態が清明であれば、本件公正証書は被相続人の意思に反するものであるから、被相続人はその作成を拒むであろうし、被相続人の意識状態が著しく悪化していれば、公証人が遺言公正証書は作成できないと判断する可能性があるから、(1)ウ(オ)のとおり、肝性脳症による意識障害が日内変動を伴うことを併せ考慮すると、被相続人の死期が切迫する中でその意思に反する内容の遺言を作出するには、公正証書遺言の手続は失敗する危険性が高い方法といえたのであり、被告らが、この危険性を踏まえた上で、あえて公正証書遺言の手続をとったということは考えにくい。
したがって、本件清書等及び本件公正証書の内容が被相続人の意思に基づくものではないという原告の主張は採用できない。
イ 原告は、被相続人は、A公証人から本件公正証書の各条項の確認を求められても、発語をせずにかすかに頷くだけであった旨、及び本件公正証書への押印は病室ではされなかった旨主張し、Cはこの主張に沿った内容の供述をする。
しかし、他方、A公証人は、被相続人が、本件公正証書の各条項の確認に対し、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語をするか、又はその両方の反応をするかしたと供述しており、Cの供述と相反する供述となっている。A公証人は、病室に来る前に、被告Y2から、被相続人の病状が悪化したと聞いて、同人の意識状態に強い関心を有していたと供述し、この供述は、当時の状況からして十分に考えられることである。そうすると、被相続人の反応に関するA公証人の供述は信用することができ、上記のCの供述のうちこれに反する部分は信用できない。
また、本件公正証書への押印に関して、Cは、A公証人が、被告Y2に対し、本件公正証書に印鑑を押して公証役場に持ってくるよう指示したと供述するが、この供述は、病室で本件公正証書への押印をさせた旨のA公証人の供述に反するし、被告Y3が同日深夜ころ本件公正証書の正本(甲4の2)を所持していたこと(当事者間に争いがない。)に照らして不自然である上、これを裏付ける客観的証拠もないから、上記の供述を信用することはできない。
そして、そのほかに原告の主張する事実を認めるに足る証拠はない。
したがって、この点の原告の主張は採用できない。
(3) (1)の認定に対し、被告らは、被相続人は、本件公正証書の読上げに先立ち、眼鏡を受け取って、自分でこれをかけ、被告Y3及び被告Y4の腕をつかんで本件公正証書と自分との距離を調節した、A公証人から本件公正証書を読み上げられ確認を求められると、その文書を目で確認した上「はい。」と繰り返し答えた、本件公正証書の作成が終わると、被告Y2、被告Y1及び被告Y3の子供らに、話しかけたり笑いかけたりしたと主張する。そして、被告Y2は、上記主張に沿った内容の供述をし、Iが平成18年6月14日午後8時57分ころに被告Y4に送った電子メール(乙6)には、「お父さんツライらしく、暑いとかオムレツがむれるとか、訴えいました。栄養の点滴がわずらわしくて、これがないとさっぱりする。と言っていました。」、「Cさんがちょっと居なくなった時にY3が「頑張ったね、ホッとしたね。」と言うと、「うん」とうなずいていたよ。お母さんや子供達が来て、子供達が手を握ってあげるとニコッとしてました。良かったよ。」との記載がある。
しかし、上記の被告Y2の供述及び電子メールの記載は、被相続人の言動に関するA公証人の証言(特に、被相続人が、A公証人の問いかけに対し、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語するか、又はその両方の反応をした旨、及び右腕を振った際に声を出さなかった旨)に反すること、(1)ウ、オで認定した本件公正証書の作成の前後における被相続人の病状に照らしてにわかに信じ難いこと、上記被告Y2の供述は、なんら客観的な裏付けがなく、上記電子メールは、被告Y3の妻であるIが被告Y4に送信したものにすぎない上、(1)エのとおり、被告Y4とIは、同日、病室に入室してから退出するまでほぼ一緒に行動していたのであるから、Iが被告Y4に対して被相続人の様子を記載した電子メールを出すのは不自然であることに照らして、上記の被告Y2の供述及び電子メールの記載はいずれも信用できない。
したがって、この点の被告らの主張は採用できない。
2 争点1(遺言能力の有無)について
(1) 原告は、被相続人が、本件公正証書の作成当時、肝性脳症、薬の投与、睡眠不足等により、意識レベルが低下した状態にあり、本件公正証書の内容が複雑なものであったことから、被相続人が本件公正証書による遺言の内容及び効果を理解できたはずはなく、遺言能力はなかったと主張する。
確かに、前記1(1)ウないしオで認定した被相続人の死亡までの病状の推移からすれば、同人は、平成18年6月14日には、意識障害を伴う肝性脳症を発症していた蓋然性があると推認できること、前記1(1)ウ(エ)、(オ)のとおり、同人は、同日、肝硬変及び肝細胞癌の末期にあり、病状は悪く、睡眠薬及び眠くなる成分の入った痛み止めの投与を受けていたこと、同月13日深夜から14日未明にかけて、病状の悪化による苦しさから度々目を覚ましたために、同日には、睡眠不足の状態にあったと推認されることにかんがみれば、同人の意識レベルは、同日には、相当に低下していたということができる。
また、前記第2・1(2)イのとおり、本件公正証書の遺言内容は、6筆の土地、2棟の建物、預貯金、有価証券、現金及び動産類という多種類で少なからぬ量の財産(しかも、一部の土地及び建物は共有持分である。)を5名の相続人に異なった割合で分配するものであって、やや複雑なものであるといえる。
しかしながら、証拠(証人D、証人A)によれば、肝性脳症の症状には日内変動があり、同月13日以前の被相続人の意識状態にも日内変動があって、時間帯によって、意識が清明となったり混濁したりしていたこと、同月14日にも、意識状態の日内変動があって、時間帯によっては、被相続人の意識が清明になっていた可能性があることが認められる。
そして、前記1(1)ウ(オ)のとおり、<1>D医師が、同日までの被相続人の肝性脳症の重症度について、昏睡度1ないし2の間にとどまると判断していたこと、前記1(1)エのとおり、<2>被相続人は、A公証人に氏名を呼ばれると、頷くか、又は頷くとともに呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」という発語をし、これによって、被相続人の病状が悪化した旨聞いていたA公証人が、被相続人の意識レベルは遺言ができる状態であると判断したこと、<3>被相続人は、A公証人から、本件公正証書の各条項について確認を求められると、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語をするか、又はその両方の反応をするかしたこと、<4>被相続人は、ベッドに仰向けになった姿勢で、誰にも支えられることなく独力で腕を上げて肘を浮かせた状態になり、練習用の署名を1回してから、本件公正証書に署名したのであり、A公証人は、被相続人が独力で練習用の署名をしたので、持参していた署名ができる遺言者用とできない遺言者用の公正証書の様式のうち署名ができる遺言者用の様式を用いることとして、被相続人をしてこれに署名させたこと、<5>被相続人は、A公証人から、遺言の手続が終わった旨告げられると、右手を上げ、親指と人差し指で丸い輪を作り、右腕を右から左へ1回振る仕草をしたが、これは被相続人が意識的に行った動作であること(証人D(第2回))、<6>被相続人は、A公証人が病室に在室していた約15分間、静かに横たわり、不要な言動をしなかったこと、前記1(1)イのとおり、<7>被相続人は、同月4日までに、被告Y2に対し、遺言の内容を口述し、遺言の手続をするよう指示したことが認められ、これらの各事実にかんがみれば、被相続人は、本件公立証書の作成当時、A公証人が遺言の手続のために来室し、自分に対し、遺言の内容を確認し、遺言書に署名をするように求めたこと、自分が、遺言書に署名して、遺言の手続を終えたことを認識していたと推認するのが相当である。
また、上記の各事実に加え、前記1(1)イのとおり、本件公正証書の内容が被相続人があらかじめ被告Y2に口述した遺言の内容と合致していることを併せかんがみれば、被相続人は、本件公正証書の作成当時、本件公正証書による遺言の内容及び効果を認識していたと推認できる。
そうであるとすれば、被相続人の意識レベルが同月14日に相当に低下していたこと及び本件公正証書の内容がやや複雑なものであることをもってしても、被相続人が、本件公正証書の作成当時、本件公正証書による遺言の内容及び効果を理解できず、遺言能力を有していなかったと認定することは困難である。
したがって、この点の原告の主張は採用できない。
(2) ア 原告は、被相続人の意識レベルの低下の理由として、尿毒症又は腎不全も挙げ、D医師作成の「病歴総括」(甲5)には「6月14日には」、「肝性脳症と尿毒症による意識障害がベースであると考えられた。」との記載がある。
しかし、D医師は、証人尋問(第1、2回)において、上記「病歴総括」の「尿毒症による意識障害」という記載は適切でなく、被相続人が、同月13日当時、尿毒症性脳症に罹患していた可能性は低く、同月14日当時、尿毒症を発症していたかどうかは分からない旨供述しているから、上記「病歴総括」の記載をもって、被相続人が本件公正証書の作成当時に尿毒症による意識障害を発症していたと認めることはできず、そのほかに、被相続人の意識レベルが本件公正証書の作成当時に尿毒症又は腎不全の影響で低下していたとの事実を認めるに足る証拠はない。
したがって、この点の原告の主張は採用できない。
イ 原告は、被相続人が、被告Y1との同居等を遺言の条件としていたのに、その条件が本件公正証書に記載されていないことに異議等を述べなかったことから、同人が本件公正証書の内容を理解していなかったのは明らかであると主張し、被相続人が、本件清書等に、「子供達が協力して妻Y1の生涯を面倒みる事を条件に次の通り遺言をする。」との文言や被告Y3の子供らの教育費のことを記載させたが、これらの記載は本件公正証書には無かったという、原告の上記主張に沿う事情も存する。
しかし、仮に、上記各記載が本件公正証書にあったとしても、それらは何らの法的効果も生じさせないと解されるから、それらの有無は本件公正証書による遺言の内容及び効果とは関係ない。そうすると、被相続人が上記各記載が無いことに異議等を述べなかったからといって直ちに、同人が本件公正証書の内容を理解していなかったというのは困難である。
したがって、この点の原告の主張は採用できない。
(3) 本件においては、そのほかに、被相続人が、本件公正証書の作成当時、遺言能力を有していなかったとの事実を認定するに足る証拠はない。
(4) よって、争点1についての原告の主張は理由がない。
3 争点2(口授の要件の有無)について
(1) 前記1(1)ア、イ、エのとおり、被相続人は、平成18年5月4日から同年6月3日まで、被告Y2に対し、遺言の内容を口述したこと、A公証人が、同月14日、病室を訪れ、被相続人に対し、自分が公証人であり、遺言公正証書の作成に来た旨告げた上、本件清書等を基に作成した本件公正証書を読み上げ、1つの物件を誰かに相続させる旨読み上げるごとに確認を求めたのに対して、被相続人は、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語をするか、又はその両方の反応をするかしたこと、被相続人が独力で本件公正証書に署名したことがそれぞれ認められ、これらの各事実にかんがみれば、被相続人は、A公証人に対し、口頭で、本件公正証書に記載された内容の遺言をする意思を表明し、遺言の趣旨を口授したものというべきであり、本件公正証書による遺言は、民法969条2号の「口授」の要件を満たすものといえる。
(2) ア 原告は、被相続人は、A公証人の問いかけに対し、発語をせずに領いたのみであったから、「口授」をしたとはいえないと主張し、Cはこの主張に沿った内容の供述をするが、前記1(2)イのとおり、この点のCの供述は信用できず、被相続人が呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語したこともあったと認めることができるから、上記の原告の主張は採用できない。
イ また、原告は、被相続人は、A公証人の問いかけに対し、本件公正証書の1つ以上の条項について発語せずに領いたのみであり、その余の条項についても呼吸音のような声で発語したのみであって、明確な意思表示をしていないから、「口授」をしたとはいえない旨主張する。
しかし、民法969条2号の「口授」は、遺言の意思内容の正確性を保するための要件であると解されるところ、(1)で説示した各事実にかんがみれば、被相続人は本件公正証書に記載された内容の遺言をする意思を明らかにしたということができ、仮に、被相続人が本件公正証書の1つ以上の条項について発語せず領いただけであったとしても、それだけでは上記意思が明確でないとはいえないから、本件公正証書による遺言が「口授」の要件を欠くということはできない。
したがって、上記の原告の主張は採用できない。
ウ 本件においては、そのほかに、「口授」の要件を否定すべき事情を認めるに足る証拠はない。
(3) よって、争点2についての被告の主張は理由がある。
4 争点3(押印の要件の有無)について
(1) 前記1(1)エのとおり、被相続人は、本件公正証書の読上げが終わった後、独力で本件公正証書に署名したこと、その直後、A公証人は、病室において、被告Y2、被告Y3又は被告Y4のいずれかをして本件公正証書に被相続人の印章を押印させたことが認められるから、本件公正証書による遺言は、民法969条4号の「印を押すこと」の要件を満たすものといえる。
(2) ア これについて、原告は、被相続人は誰にも本件公正証書に代印するよう依頼していないから、本件公正証書による遺言は「印を押すこと」の要件を欠くと主張する。そして、A公証人は、被相続人の意思を確認せずに、上記被告らのいずれかをして押印をさせたという事情も存する。
しかし、(1)で説示したとおり、被相続人は、本件公正証書の読上げが終わった後、独力で本件公正証書に署名したのであるから、同人が本件公正証書を完成させる意思を有していたことは明らかといえ、自分が本件公正証書に押印できないのであれば他の者に代印させる意思を有していたと推認できるから、民法969条4号の「印を押すこと」が遺言者の同一性及び遺言の意思の明確性を担保するための要件と解されることに照らせば、A公証人が、被相続人の意思を確認せずに、他の者に押印をさせたからといって、本件公正証書による遺言が「印を押すこと」の要件を欠くということはできない。
したがって、上記の原告の主張は採用できない。
イ また、原告は、本件公正証書への押印は病室でされたものでないから、本件公正証書による遺言は「印を押すこと」の要件を欠くと主張し、Cはこの主張に沿った内容の供述をするが、前記1(2)イのとおり、この点のCの供述は信用できず、本件公正証書への押印は病室でされたと認められるから、上記の原告の主張は採用できない。
ウ 本件においては、そのほかに、「印を押すこと」の要件を否定すべき事情を認めるに足る証拠はない。
(3) よって、争点3についての被告の主張は理由がある。
第4 結論
以上によれば、原告の請求は理由がないから、これを棄却することとして、主文のとおり判決する。
民事第24部
(裁判長裁判官 澤野芳夫 裁判官 荻原弘子 裁判官 長井清明)
(別紙)物件目録
1 所在 ○○区(以下略)
地番 (省略)
地目 宅地
地積 77・09平方メートル
(被相続人の持分は10分の7)
2 所在 佐久市(以下略)
地番 (省略)
地目 畑
地積 1147平方メートル
3 所在 ○○区(以下略)
地番 (省略)
地目 宅地
地積 133・97平方メートル
4 所在 鎌ヶ谷市(以下略)
地番 (省略)
地目 山林
地積 59平方メートル
5 所在 鎌ヶ谷市(以下略)
地番 (省略)
地目 畑
地積 547平方メートル
6 所在 鎌ヶ谷市(以下略)
地番 (省略)
地目 山林
地積 6・46平方メートル
7 所在 ○○(以下略)
家屋番号 (省略)
種類 診療所・居宅
構造 鉄筋コンクリート造陸屋根4階建
床面積 1階 64・25平方メートル
2階 65・20平方メートル
3階 64・03平方メートル
4階 39・35平方メートル
8 所在 ○○区(以下略)
家屋番号 (省略)
種類 居宅・店舗
構造 鉄骨造陸屋根3階建
床面積 1階 66・57平方メートル
2階 69・93平方メートル
3階 68・13平方メートル
(被相続人の持分は20分の13)
東京高裁
ここには、遺言者が肝がん末期の肝性脳症にり患しており、死の30数時間前であり、10日近く前から見当識の低下がみられていたことなど一切記載されないし、原告の妻が病室では押印がされていないと主張したこと、さらには、第1審で当事者双方に争いのない事実、すなわち、被告の内の次女よりこの公正証書遺言が病室で作成される前日か前々日に、原告である長男に「お兄さん、お父さんから、実印を預かっていない?」という電話があったことなどは、記載されていない。この様な、判例のみを読んで、公正証書の本質を誤ってとらえることは避けたいものです。
また、下記控訴審は、たった一回の口頭弁論で何ら審理もせずに終結し、新たな証拠提出を行わせないような、弁護士などによる不公正な訴訟上の詐欺行為が行われているようである。
【裁判年月日等】 平成20年12月25日/東京高等裁判所/第19民事部/判決/平成20年(ネ)第4422号
【事件名】 遺言無効確認請求控訴事件
【裁判結果】 控訴棄却
【上訴等】 確定
【裁判官名】 青栁馨 長久保守夫 小林昭彦
【審級関係】 第一審 平成20年 7月30日/東京地方裁判所/民事第24部/判決/平成18年(ワ)第23309号
東京高等裁判所
平成20年(ネ)第4422号
平成20年12月25日
東京都○○区(以下略)
控訴人 A
同訴訟代理人弁護士 岩田修
同 宮島佳範
同 梶浦明裕
東京都○○区(以下略)
被控訴人 Y1
東京都○○区(以下略)
被控訴人 Y2
東京都○○区(以下略)
被控訴人 Y3
東京都○○区(以下略)
被控訴人 Y4
上記4名訴訟代理人弁護士 桒原周成
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 訴訟費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人
(1) 原判決を取り消す。
(2) 東京法務局所属公証人A作成の平成18年第1192号遺言公正証書によるBの遺言が無効であることを確認する。
(3)訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人らの負担とする。
2 被控訴人ら
主文同旨
第2 事案の概要
1 本件は、B(以下「被相続人」という。)が、東京法務局所属公証人A(以下「A公証人」という。)作成の平成18年第1192号遺言公正証書(以下「本件公正証書」という。)により遺言をした後、平成18年6月16日に死亡したところ、その相続人である控訴人が、共同相続人である被控訴人らに対し、本件公正証書による上記遺言は、被相続人が遺言をした時に遺言能力を有していなかった上、民法969条所定の方式に反して同条2号所定の遺言者の口授及び4号所定の遺言者の押印がなかったから、無効であるなどと主張して、本件公正証書による上記遺言が無効であることの確認を求める事案である。
原判決は、控訴人の請求を棄却したので、これを不服とする控訴人が控訴をした。
2 前提となる事実、争点及び争点についての当事者の主張は、後記のとおり当審における控訴人の主張を付加するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要」の1から3まで(原判決2頁12行目から8頁末行まで)に記載のとおりであるから、それぞれこれを引用する。
第3 当裁判所の判断
1 当裁判所も、控訴人の請求は理由がないから棄却するのが相当であると判断する。その理由は、次の2のとおり原判決を訂正し、後記3のとおり当審における控訴人の主張に対する判断を付加するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の「第3 当裁判所の判断」の1から4まで(原判決9頁2行目から26頁18行目まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。
2 原判決の訂正
(1)原判決16頁8行目の「A公証人は、」から10行目の「完成させて」までを「被控訴人Y2、被控訴人Y3又は被控訴人Y4のいずれかが被相続人の意思に基づいて本件公正証書に被相続人の印章を押印した後、A公証人は、本件公正証書に署名押印をしてこれを完成させて」と改める。
(2)原判決17頁19行目、18頁5行目及び19頁1行目から2行目にかけての「被相続人の意思に基づくものではない」をいずれも「被相続人が従前有していた意向と異なるものである」と改める。
(3)原判決18頁13行目の「被相続人の意思に基づく」を「被相続人の従前の意向に沿う」と改める。
(4)原判決18頁15行目及び19行目の「被相続人の意思」をいずれも「被相続人の従前の意向」と改める。
(5)原判決25頁19行目の「A公証人は」から21行月の「押印させた」までを「病室において、被控訴人Y2、被控訴人Y3又は被控訴人Y4のいずれかが被相続人の意思に基づいて本件公正証書に被相続人の印章を押印した」と改める。
(6)原判決25頁25行目の「そして」から26行目末尾までを削る。
(7)原判決26頁5行目の「民法969条4号」から8行目の「といって」までを「被控訴人Y2、被控訴人Y3又は被控訴人Y4のいずれかが被相続人の意思に基づいて本件公正証書に被相続人の印章を押印したものと推認すべきであって」と改める。
3 当審における控訴人の主張に対する判断
(1) 控訴人は、原判決が、A公証人が本件清書等を基に作成した本件公正証書を読み上げ、1つの物件を誰かに相続させる旨を読み上げるごとに確認を求めたのに対して、被相続人は、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語をしたか、又はその両方の反応をしたと認定した上で、仮に被相続人が本件公正証書の1つ以上の条項について発語せず領いただけであったとしても、本件公正証書による遺言が「口授」の要件を欠くということはできないと判示したことについて、上記判断は、口授の要件を定める民法969条2号の規定の趣旨に反し、遺言者が公証人の質問に対し言語をもって陳述することなく単に肯定又は否定の挙動を示したにすぎないときは、民法969条2号にいう口授があったものとはいうことができないと判示した最高裁判所判決(最高裁判所昭和51年1月16日第二小法廷判決・裁判集民事117号1頁)に違背すると主張する。
そこで検討すると、民法969条2号の規定が定める「口授」とは、言語をもって口頭で述べることであり、遺言者が公正証書によって遺言をするに当たり、公証人の質問に対し言語をもって陳述することなく、単に肯定又は否定の挙動を示したにすぎないときは、民法969条2号にいう口授があったものとはいうことができない(上記の最高裁判所判決)ところ、本件では、原判決が認定するとおり、A公証人が本件清書等を基に作成した本件公正証書を読み上げ、1つの物件を誰かに相続させる旨を読み上げるごとに確認を求めたのに対して、被相続人は、頷くか、呼吸音に近い声で「はい。」若しくは「はえ。」と発語をしたか、又はその両方の反応をしたと認められるのであるから、被相続人が言語をもって陳述したことは明らかであり、単に肯定又は否定の挙動を示したにすぎない場合には当たらないというべきである。そうすると、本件公正証書による遺言は、民法969条2号の規定に反するものではなく、上記の最高裁判所判決に反するものでもないといわなければならない。
したがって、控訴人の上記主張は採用することができない。
(2) 控訴人は、原判決が、被相続人は、本件公正証書の読上げが終わった後、独力で本件公正証書に署名したのであるから、同人が本件公正証書を完成させる意思を有していたことは明らかであり、自分が本件公正証書に押印することができないのであれば他の者に代印させる意思を有していたと推認することができると判示したことについて、そのように推認することはできず、被相続人の印章の押印が被相続人の意思に基づかないことは明らかであるから、被相続人の押印の要件を満たしているとする原判決の判断は、遺言者の押印の要件を定める民法969条4号の規定の趣旨に反し、遺言者以外の者が遺言者に代わってその印章を押印する場合は、遺言者の意思に基づくことを要するとした大審院判決(大審院昭和18年11月26日判決・法学13巻394頁)に違背すると主張する。
しかし、原判決が認定するとおり、被相続人は、本件公正証書の読上げが終わった後、独力で本件公正証書に署名をしたことが認められるから、同人が本件公正証書を完成させる意思を有していたことは明らかであり、自分が本件公正証書に押印することができないのであれば他の者に代印させる意思を有していたものと推認することができるというべきである。そうすると、原判決の認定するとおり、本件公正証書には、被控訴人Y2、被控訴人Y3又は被控訴人Y4のいずれかが被相続人の意思に基づいて被相続人の印章を押印したものと推認することができるから、本件公正証書による遺言は、民法969条4号の規定に反するものではなく、上記の大審院判決に反するものでもないといわなければならない。
したがって、控訴人の上記主張は採用することができない。
4 以上の次第で、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。
第19民事部
(裁判長裁判官 青柳馨 裁判官 長久保守夫 裁判官 小林昭彦)