解説

裁判資料のほぼすべてを閲覧し、なるべく中立的な立場で、各事件を解説します。記載は、当事者以外の執筆者です。

第一、錦糸町公証人役場百瀬武雄公証人事件

Sさん(大正15年生)は、平成16年に末期癌に冒されていることを知りましたが、母校である慈恵医大の附属病院に通院し、退院を繰り返しながら、皮膚科開業医の仕事を一人で続けていました。Sさんには、奥さんと4人の子供がいました。
Sさんの長男のAさんは、約20年前より、都内で歯科医を開業していますが、Sさんの病気を知ってから、仕事量を減らして、休診日もSさんの休診日と合わせて、共通の休診日である木曜日と土曜、日曜祭日には、新橋界隈でSさんと飲食を共にして、Sさんと幼少期の話、祖父の話あるいは戦中、戦後の話などを聞き、Sさんの死後の相続の意向なども、以前と同じ内容で聞いていました。Sさん自身は、親から財産を相続するときには、相続人がSさん一人だったので、相続のときに争いを経験していませんでした。そのため、Sさんは自分の遺産の相続で、争いが発生するとは思わなかったのでしょうか、遺言書を作成しようとしませんでした。
Sさんは、平成18年5月に、新橋のラピスタという場外舟券売り場で体調を崩し、通院していた慈恵医大付属病院に当日、緊急に入院しました。この入院は、Sさんにとって5回目の入院でしたが、以前の入院は検査のための予約による、おおむね一週間以内の入院でした。Aさんは、いままでの入院とは様子が違い、看護が必要だと判断し、元看護士だったAさんの奥さんに、看護を頼みました。入院当初に、Aさんは葬儀場、戒名および相続についてSさんと話しました。
6月の初めごろには、(母校周辺の建物を指して、「あれは何だ」と聞いたり、「今日は何曜日か」と一日に何度も問いかけるなど)見当識の低下が認められました。また、発語をまったくしない日もありました。Aさんは相続事務に必要になると思い、Sさんの4か所7筆に分かれる所有不動産の固定資産税評価証明書を取るために、申請書に母親(Sさんの妻)の署名押印を貰おうと、実家を訪れました。このときに、Aさんは、母親から「相続を放棄してくれ」と言われました。6月7日頃から、Sさんの症状は悪化し、後にAさんは病室に泊まり込んで看病しました。6月12日ころには、担当医などから危険な状態であるむねの説明がありました。6月13日頃に、Sさんの次女よりAさんへ「お兄さん、お父さんから実印を預かっていませんか」という電話が入りましたが、「実印は預かっていない」と答えました。
6月14日の朝、Aさんの開業する診療所にSさんの長女(内科医師)から電話がありましたが、「今日は役場に行って忙しい」などという意味のわからないことを言われ、電話は一方的に切られたので、Aさんが電話をかけなおしたところ、電話がつながりませんでした。
この後、Sさんが入院する病室に、錦糸町公証役場の百瀬武雄という公証人が来て、Sさんに向かい「Sさんですね」と呼びかけ、持参した遺言書のような書類を読み上げました。読み上げた内容は、Sさんの財産の分配などについてで、15分くらいで作業を終えた百瀬氏は退室し、Sさんの長女が運転する自動車で送られて錦糸町公証役場に帰って行きました。偶然、その場に居合わせた奥さんは、読み上げられた財産分配の内容などが、夫のAさんから聞かされたものとは異なり、Aさんに非常に不利なものになっていることに気づきました。奥さんからこのことを聞いたAさんは、不信に思い、何をしたのか家族に問い合わせようとしましたが、連絡が取れませんでした。Aさんは仕事が終わってから、Sさんが入院している病院に行き、看病していた奥さんに会い、詳しい事情を聴きました。その後、奥さんと入れ替わって、Sさんの看護をしていましたが、昼間の出来事が気になり、病院の宿直に断ってから、実家に行って、家族に説明を求めたところ、最初、説明を拒否され、何時間も待たされた後に、弟に「お前これが欲しいんだろ」と公正証書遺言の正本のコピーを投げ渡されました。Aさんは、それを受けた取った後に、虫の息のSさんのいる早朝の病室に戻りました。その朝6時に、宿直の主治医がAさんに、Sさんは早ければ数時間で亡くなる可能性があると説明しました。実際に、Sさんはその翌日(6月16日)の午前1時42分に亡くなりました。
Aさんは、このような方法で遺言書が作成され効力をもつことに納得できず、遺言無効確認訴訟を行いました。公証制度とは、国民の私的な法律紛争を未然に防ぎ、私的法律関係の明確化、安定化を図ることを目的として、証書の作成等の方法により一定の事項を公証人に証明させる制度です。この事例では、明確にされなければならない私的法律関係は何でしょうか。単に、どのような形であれ、財産の分配方法が確定すれば、それが明確になったと言えるわけではありません。この場合に、公証人ないし公証制度が明確化して、証明しなければならないものは、遺言者Sさんの遺志そのものでなければなりません。この手続きを踏んだ錦糸町公証役場の百瀬公証人は、Sさんの遺志を正しく理解し、確認することができたのでしょうか。
裁判の過程で明らかになった次の事実を踏まえて考えると、Sさんの遺志が公証人によって正確に理解・確認されたと考えるのは非常に無理があることがわかりました。

1.百瀬公証人はSさんとはまったく面識が無く、事前に公正証書遺言の作成を相談されたこともなく、電話で会話を交わしたこともなかった。
2.公正証書遺言作成の根拠となった資料は、Aさんと利害関係が対立するAさんの家族がワープロで作った文書だけで、Sさんが自ら作成したと確認できるものは皆無だった。
3.百瀬公証人は死亡三十数時間前のSさんの病室におもむいて、Sさんの前で15分間書面を読み聞かせただけだった。

この事件で問題になっている公正証書遺言の内容は、Aさんの相続分として、法定相続分はおろか、遺留分にも達しない分配を指定している、遺言書作成者の強い意志を感じさせる内容のものです。百瀬公証人は、この遺言書の内容によって、利益を受ける直接の利害関係者からの説明や資料だけに基づき、Sさん本人の意向をなんら調査せず、15分間の手続きだけを通して、この公正証書遺言を作成し、効力をもたせました。裁判では、病室で百瀬公証人の説明を聞いたはずのSさんが、百瀬公証人の確認に対して、どのように反応したのかが問題になりました。現場に居合わせたAさんの奥さんは、まったく発語はなかったと陳述し、公証人に対する証人尋問を持ってしても、Sさんが「はい」とか「はえ」とか曖昧な返事をした以外に、百瀬公証人の問いかけに積極的な意思表示を行っていなかったとなりました。百瀬公証人は、このような不確かな状況、情報を基にして、Sさんの遺志をどのように確認することができたのでしょうか。ところが、裁判では、このような事実が明らかになったにもかかわらず、Aさんの主張は退けられ、公正証書遺言は有効なものであるとされました。つまり、裁判官は、このような不確かな状況においても、百瀬公証人はSさんの考えを確認できたのだと結論付けたのです。また、裁判所でさえもが、被告である原告Aさんの妹弟の提出した携帯メール証拠(公証人の出張遺言作成の数日目より当日まで複数回にわたって「お父さんはよくしゃべった」などと書かれている。)や被告長女Mさん証人尋問は、信憑性がないと判断したにもかかわらず遺言を有効と判決しました。


第二、公証制度の欠陥
明らかに、この例では公証制度は、私的法律関係を明確にするためではなく、私的利害対立の一方の利益を公的に保証する道具として使われています。なぜ、この様な事が起こるのでしょうか。公証制度には、制度的な欠陥があり、その欠陥こそが、法曹界の利益を生み出す源泉の一つだからです。

1.公証人は、退官した検事、裁判官、法務事務官の天下り先です。
2.公証人役場は個人経営、独立採算の事業であり、公正証書を作成する手数料によって事業収入を得ています。
3.公証人は高収入で、平均年収は3000万円に上ります。
4.公証人は依頼を受けても、最終的に公正証書を作成しなければ手数料を請求することができません。
5.公証人の公正証書が正しく作られているかどうかを日常的にチェックする機能はありません。
6.公証人が正しくない公正証書を作成し、その為に関係者に損害を与えた場合、公証人には損害賠償の義務はなく、国家が義務を負うことになっています。
7.公証人が問題のある公正証書を作成して、その問題が訴訟で問われた場合には、公証人が法曹界を裁判官の先輩にあたるので、公証人に不利になるような判決を裁判官が書くことは非常に困難になっています。

このような制度であるので、公証人は公益のために事実関係を正しく確認するために公正証書を作成するよりも、収入を得るために依頼者の求めに応じて、依頼者の満足する公正証書を作成することになりがちです。また、公証人役場のこの様な性質を知っていて、自らの私的利益を公的に保証するために、公証制度を悪用する人々がいます。

 

TK